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覇業への道~英傑乱舞~

 【05//2014】

河越城の戦い


夜襲
天文十五年(1546年)四月二十日

武蔵河越城に到着した北条左京大夫氏康は、
自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を、多目周防守元忠に預け、残りの三隊を率いて、

子の刻(深夜12時から午前2時まで)


「我聞く戦の道は衆といえども必ず勝たず、寡といえども必ず敗れず、

ただ士心の和と不和とにあるのみ、

諺にいわく、小敵といえども侮るべからず、大敵といえども恐るべからず云ふ。

我上杉と数度戦に及びけれども、いつも我一人にて敵十人に当たれり、

寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決この一戦にあり。

汝ら心を一にし、力をあわせ、ただ我向かふ所を視よ。」




私が知っている戦というものは、兵を大勢集めたといっても必ず勝つわけでもなく、
兵が少ないといっても必ず負けるわけではない。

ただ、武士としての覚悟があるか否かである。

ことわざにも弱敵だからといって油断することなく、また強敵だからといって恐れてはいけないとある。

私は上杉と数回戦ったが、いつも私は一人で十人の敵を相手にした。
少ない兵数で大勢の敵を相手にしたのは、何も今日に始まったことではない。
全てはこの一戦にかかっている。

汝らは心をひとつにして、ただ、私が敵に向かう姿を見ていろ。」

敵に会えばこれを斬り、敵の首は打ち捨てにし、法螺貝の音が聞こえたらすぐに撤退せよ、
と三箇条を言い渡し、自ら先んじて関東連合軍約八万に突撃を敢行する。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。



河越城が明日にも陥落するかという戦勝ムードが漂う関東連合軍陣屋では、
北条軍の深夜の急襲に、驚き、成す術が無く大混乱に陥った。

断絶
扇谷上杉陣営では、当主上杉修理大夫朝定や、重臣難波田弾正憲重らが討死し、
十三代続いた扇谷上杉家は断絶している。

余談ではあるが、朝定を誰が討ち取ったのかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、
朝定の実際の死因は病死の可能性も排除できず不明であり、連合軍崩壊の原因は、
北条軍の奇襲ではなく朝定の突然の死に求める説もある。

朝定の河越城奪還の夢は砕かれた


戦国Check✓

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は修理大夫。扇谷上杉家第十三代当主。扇谷上杉家の事実上最後の当主。
天文六年、父朝興の死により家督を継承するが、北条氏綱によって本拠武蔵河越城を追われ松山城を居城とする。
天文十五年、関東管領上杉憲政と結び古河公方足利晴氏をたてて河越城の奪回をはかり攻囲するが、
四月二十日、河越城の戦いで北条氏康に敗れて戦死。
享年二十二歳。
朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。
一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。

難波田 憲重(なんばだ のりしげ)
戦国時代の武将。通称は弾正。扇谷上杉家重臣。
難波田氏は、武蔵七党のひとつ村山党に属していた金子小太郎高範の流れを汲む一族。
古くから入間郡難波田郷(現在の埼玉県富士見市南畑地区付近)に拠点として難波田城を有した。
天文六年、河越城を奪われた主君上杉朝定を松山城に迎え
後北条氏と戦い扇谷上杉家の重臣として家勢の挽回に努めるが、
河越城の戦いにおいて古井戸に落ちて死去したと伝えられる。




亡命
関東管領山内上杉陣営では、当主上杉兵部少輔憲政を逃がす為、重臣本間近江守が奮戦するものの、
北条家重臣大道寺駿河守政繁に討ち取られている。

憲政は、家臣の助けでなんとか居城である上野平井城に逃れ、生きながらえたが、
以後、関東管領としての威信を失った山内上杉家は衰退していき、
最終的には越後国の長尾弾正小弼景虎を頼り亡命している。


戦国Check✓

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の宗家。関東管領。
足利尊氏・直義兄弟の、母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。幼名は孫九郎。官位は駿河守。相模北条家臣。河越衆筆頭。
北条早雲の重臣であった盛昌以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで松枝城を守るが、前田利家・利長軍に攻められ降伏。
秀吉の命で天正十八年七月十九日自害。

上野平井城(うえのひらいじょう)
上野国緑野郡平井郷(現在の群馬県藤岡市西平井)にあった城。



河越城で籠城し耐え凌いでいた北条左衛門大夫綱成は、氏康の奇襲作戦を待っていましたとばかりに城門を開き、
古河公方足利左兵衛督晴氏の軍めがけて突撃し、足利軍を壊滅寸前にまで追い込んでいる。

大勝利
勝機を得た北条軍は、氏康の号令の下、逃げ惑う関東連合軍を執拗に追い、敵陣深く切り込むが、
後方より戦況を見守っていた多目周防守元忠が危険を感じ、独断で退却の法螺貝を吹かせ、
深追いする北条軍を退却させている。

元忠のこの冷静な判断を氏康は賞賛したという。

八万の大軍団に、八千で挑んだ河越城の戦いは、北条軍の大勝利に終わり、
北条左京大夫氏康という名が、関東に鳴り響いた。

この合戦での関東連合軍の死傷者は、一万三千から一万六千人と伝えられている。


戦国Check✓

籠城(ろうじょう)
城にこもり敵と戦うこと。敵陣包囲の中、味方が劣勢の場合の重要な戦術。
籠城により敵を攻略するには、何よりも食糧、水などの生活物資の確保が先決であり、
加えて矢、火薬、石などの戦闘用具の準備も必要となる。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
後北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
享徳四年(1455年)、第五代鎌倉公方足利成氏が、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となる。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。
御所は主に古河城。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

足利 晴氏(あしかが はるうじ)
室町時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位 左兵衛督。室町幕府第四代古河公方。
越後長尾氏の援助を得て元服し、将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。
父高基の方針のもと後北条氏と婚姻関係を結び、北条氏の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を
下総国府台(こうのだい)合戦で破った。
その後、後北条氏からの自立を図り河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦うが敗れ、
勢力を後退させた。



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次回 第七十四話 東三河侵攻 ⇒



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