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暗殺事件関係の資料類の再検証が必要

 【05//2014】

松平広忠暗殺の黒幕



織田弾正忠信秀により、竹千代を奪われた今川治部大輔義元は、

太原崇孚雪斎を総大将とし、副将に朝比奈備中守泰能を付けて、

織田弾正忠家の三河侵攻における戦略拠点である三河安祥城攻略を命じ、約一万もの大軍団を出陣させている。


安祥城
永享十二年(1440年)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)に、
代々この地方をおさめていた領主和田親平が築城したと言われている。

舌状台地(ぜつじょうだいち)の先端に位置し、周囲は森と深田に囲まれており、その内側に土塁や堀がある、
天守を持たない平山城であったという。

文明三年(1471年)
三河松平家第三代当主 松平左京亮信光が、謀略を用いて無血落城させ、
織田信長・徳川家康の「清州同盟」により廃城となるまでの百二十三年間、松平氏四代の居城となる。

この四代の間を、安祥松平氏(松平宗家)と呼ぶ。

安祥松平家は、松平二郎三郎清康(徳川家康の祖父)が、森山崩れで逝去するまで安祥を本拠としており、
清康の死後、松平次郎三郎広忠の代より本拠が三河岡崎城となる。



戦国Check✓

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は左京亮、備中守。駿河今川家臣。遠江掛川城主。
駿河今川家重臣筆頭とされ、父朝比奈泰熙の死後、伯父泰以の補佐を受け、
若くして今川西方の要衝 遠江掛川城主となる。
小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣し、尾張織田氏に大勝するなどの活躍を見せるが、
桶狭間の合戦前に没したと思われる。

舌状台地(ぜつじょうだいち)
舌を伸ばしたような細長く突き出た台地のこと

松平 信光(まつだいら のぶみつ)
室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。通称は次郎三郎。官位は左京亮。三河松平家第三代当主。岩津松平家の祖。
「朝野旧聞裒藁」や江戸期の系譜類は第二代当主松平泰親の子とされるが、
「松平由緒書」では初代当主松平親氏の子であるとする。
信光は三河の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。
戦国時代に入ると安祥に進出して西三河に勢力基盤を築いて戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。



迎え打つ織田弾正忠信秀は、松平氏や今川氏などの侵攻に備え、居城を尾張古渡城から末森城へ移し、
実弟織田孫三郎信光が守る尾張守山城や、庶長子である織田三郎五郎信広が守る三河安祥城と合わせて
東方防御線を構成していた。


古渡城
天文三年(1534年)
織田信秀によって、尾張国愛知郡古渡(現在の愛知県名古屋市中区)に東西140m、南北100m、
四方を堀で囲まれた平城が築かれている。
しかしわずか十四年で廃城となる。
現在は、真宗大谷派名古屋別院となっており、
敷地内には、古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園がある。



末森城
天文十七年(1548年)
三河松平氏と駿河今川氏の侵攻に備え、
信秀は古渡から尾張国愛知郡末森(現在の愛知県名古屋市千種区城山町)に居城を移す事になる。
東山丘陵地の末端に位置する標高43mの丘に、東西約200m、南北約160mの規模で築かれた平山城であった。

縁起の良い名ということで「末盛城」とも言われていたそうだ。

「戦略に最適な場所に居城を移すという合理的な考え」は、

「織田信長の独創」ではなく、父である信秀から学んだことであった。

末森村古城図によれば、
東西45m、南北約50mを本丸の縄張とし、周囲は二重堀で囲まれており、内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい
「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。



守山城
大永元年(1521年)
桜井松平家初代当主 松平内膳正信定が、
尾張国春日井郡守山(現在の愛知県名古屋市守山区市場)に東西約58メートル、南北約51メートル、
四方に堀をめぐらせた平山城を築くが、

天文四年(1535年)には、
織田信秀の弟孫三郎信光の居城となっている。(経緯はよく解らない)

世に言う「守山崩れ」の舞台となった城である。

城跡とされる丘には、後に清康のために建立された宝勝寺が存在し、城址碑が建てられている。


戦国Check✓

織田 信光(おだ のぶみつ)
戦国時代の武将。通称は孫三郎、法名は梅岩または梅厳。
織田信秀の弟で、織田信長の叔父にあたる。
武勇に優れ、兄信秀に従い武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
信秀の死後は、家督を継いだ甥の信長をよく補佐した。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

平山城(ひらやまじろ)
平野の中にある山、丘陵等に築城された城。
戦国時代までは、防御施設として主に山城が築かれていたが、戦国末期には、平城とともに現れ始め、
江戸時代後期までに多数が築かれた。
防御的な機能と政庁の役割を併せ持ち、領国支配における経済の中心的役割も果たした。
江戸城、大阪城、姫路城、仙台城、熊本城などの近世城郭の大多数がこれにあたり、
現在日本100名城に選定されたものの内では、沖縄の首里城も含め51か所ある。

虎口(こぐち)
中世以降の城郭における出入り口のことで、「小口」とも書き、狭い道、狭い口という意味がある。
城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御された。

馬出(うまで)
虎口(城の戦闘用出入口)の外側に陣地や屋敷地を築いて防御力を高めたもの。

松平 信定(まつだいら のぶさだ)
戦国時代の武将。通称は与一、内膳正。桜井松平家初代当主。
松平宗家の家督を巡り、兄の松平信忠との対立に始まり、甥の清康・姪孫(てっそん)広忠と宗家三代にわたり反意を示した。

おススメの本
信長の変貌 鯨 統一郎 (著)
信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた 跡部 蛮 (著)
信長ミステリー 天下布武と御馬揃えの秘儀
信長の忍び 重野なおき (著)
信長のシェフ 梶川 卓郎 (著)
信長協奏曲 石井 あゆみ (著)
のぼうの城 和田 竜 (著)



第二次小豆坂の戦
怒涛の勢いで勢力を広げながら進軍する駿河・遠江の太守今川治部大輔義元に信秀は危機感を抱いていた。

天文十七年(1548年)三月十九日
織田軍先鋒織田信広隊と、雪斎率いる駿河衆が、三河国額田郡小豆坂で偶然接触し合戦となる。

雪斎率いる駿河衆の奮戦により、織田信広隊は総崩れとなり、信秀の本陣まで退却している。
以後、何度か小競り合いが行われたが、その都度、織田勢は今川勢に追われる形となり、
織田勢は安祥城に撤退することになる。

この小豆坂の戦で勝利した今川勢は、敗走する織田勢を追撃することはせず、双方睨み合いの状態が約一年程続いた。



暗殺
天文十八年(1549年)三月六日
事態を大きく変える大事件が起こった。

松平次郎三郎広忠が、家臣の岩松八弥に、暗殺されてしまうのである。

八弥は、織田信秀の密命で、広忠暗殺の機会を窺っていた刺客であったと伝えられている。
広忠暗殺事件は、義元にとって予期せぬことであった。


黒幕
義元にとって予期せぬ大事件であったにも関わらず、義元の行動は迅速であった。

松平家当主が殺害され、時期当主である嫡男 竹千代を人質に取られている以上、
松平家が織田弾正忠家へ服属するのは時間の問題であると考えた義元は、

事件後僅か十日で太原崇孚雪斎を城代として三河岡崎城に入城させている。

そして、事件の八ヶ月後には、
三河安祥城主織田三郎五郎信広を生け捕りにし、竹千代との人質交換を成功させている。



松平次郎三郎広忠 暗殺の黒幕は果たして・・・・・・・・・・・



人質
今川家の人質となった竹千代は、そのまま駿府に送られ、十一年間の人質生活を送ることとなり、
結果松平家今川家に従属することになる。

今川治部大輔義元は、三河全域を完全に支配下に置き、
駿河遠江三河という広大な領国を支配する戦国期最大の大大名となった。


戦国Check✓

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は遠州(えんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県の大井川以西にあたる。
浜名郡、敷智郡、引佐郡、麁玉郡、長上郡、長下郡、磐田郡、山名郡、佐野郡、周智郡、山香郡、城飼郡、
蓁原郡の十三郡から成る。

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。



宿敵
この二年後、
織田弾正忠信秀が死去しており、義元は、家督を継いだ織田三郎信長と対立していく事になる。

織田三郎信長     十八歳
今川治部大輔義元  三十二歳




次回 第七十七話 新たな二十一ケ条 ⇒



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