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開花宣言を向えた静岡では花々が咲き乱れていた。

 【05//2014】

新たな二十一ケ条



駿河遠江三河という広大な領国を支配する事となった今川治部大輔義元は、

天文二十二年(1553年)二月

今川仮名目録追加二十一条を制定している。

父である今川修理大夫氏親が制定した三十三ケ条からなる分国法 今川仮名目録に、
新たに二十一ケ条を加えたものである。

分国法(ぶんこくほう)とは、
戦国時代に、戦国大名が領国内を統治するために制定した法律規範である。
分国とは、中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、
室町時代中期以降に守護大名や、国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていき、
そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。

今川仮名目録には、土地などに関する訴訟の裁判基準などが定められており、
当時としては最も革新的で完成度の高い法律として知られている。
甲斐の戦国大名 武田大膳大夫晴信が制定した甲州法度之次第という分国法にも大きな影響を与えている。


戦国Check✓

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第九代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)
甲斐国の戦国大名である武田晴信(信玄)が、天文十六年(1547年)に定めた分国法で、
甲州法度之次第、信玄家法、甲州法度、甲州式目などともいわれる。
上下二巻から成り、上巻は五十七条、下巻は家訓である。
軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている。


今川仮名目録甲州法度之次第以外にもいくつかの分国法がある。

室町幕府の権威失墜にともない、戦国大名と呼ばれる新興勢力が各地で台頭し始め、
幕府の管理体制下から独立して、自ら領国を統治するために、分国法と呼ばれる法律を制定しはじめた。

越前 朝倉氏の朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)
周防 大内氏の大内家壁書(おおうちけかべがき)
豊後 大友氏の大友義長条々(おおともよしながじょうじょう)
奥州 伊達氏の塵介集(じんかいしゅう)
近江 六角氏の六角氏式目(ろっかくししきもく)などがある。



今川仮名目録に義元が加えた追加条文には、
家臣統制の規定や新たに領地となった三河国の体制規定が追加されており、今川家領国経営拡大の新体制を表している。

さらにこの追加条文では、
「今川家領国である駿河・遠江・三河の領国経営を行っているのは、

足利将軍家ではなく、今川家である。」


このことを理由に、幕府権力による守護使不入地(しゅごしふにゅうち)を全面否定している。
これは、今川家は既に、室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、
自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを世に宣言したものでもあった。

ここから義元は、領国経営に天才的な才能を発揮して行くことになる。


戦国Check✓

守護使不入(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において、幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、
幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。
幕府直轄領の立ち入り禁止。
守護不入(しゅごふにゅう)ともいう。
しかし、戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が自らの権限として、
これを授け、与えるようになる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。



主従関係
領国経営に着手した義元は、寄親・寄子制と呼ばれる主従関係を確立させている。
保護する側を寄親保護される側を寄子とし、
原則的には私的な契約関係によるが、実際には半ば強制的なものであった。

義元は主従関係の安定化のため、寄親となった有力武士の権利を保障し、
寄子が濫り(みだり)に寄親を変えることを禁じたり、義元への訴訟(そしょう)は寄親を通じて行うことを命じ、
強制力を持たせる一方、寄親が寄子に恩給を与えなかったり、その他寄子に対する不当な扱いを行った場合には、
寄親を変えさせるなど、寄子を自己の軍事力として確保する政策を取った。

この政策により徴兵はスムーズに行なわれ、軍事力は強化された。



安倍川の金な粉
また海運業による交易や、金山開発にも力を入れ、領国の経済力を飛躍的に上げている。
金山開発は、新田開発とともに戦国大名の軍事行動の基盤となる富国強兵政策の一つである。

義元もまた富士金山安倍金山などで接収された金で対外的軍事行動を支えた。

「今川記」によれば
安倍郡の金鉱は享禄以前から採掘され、幕府や公家へしばしば金を贈っていたと記されている。
今川氏の治下による繁盛を「元栄」、その後徳川氏の治下による繁盛を「中栄」と呼ぶ。

徳川家康が駿府天領としたのにも、義元が築いた安倍郡の金山開発システムに理由があるものと思われる。
余談ではあるが
安倍川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄った所、そこの店主が黄な粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、
つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。

家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付けたという伝承がある。



開花
文化面では、公家衆を優遇し、歌道の名門である冷泉家当主権大納言冷泉為和や、
蹴鞠の名門である飛鳥井家当主権大納言飛鳥井雅綱などから公家文化を取り入れ、
越前の朝倉文化、周防の大内文化と並び称される戦国三大文化の一つ、駿府の今川文化を開花させている。


戦国Check✓

富国強兵(ふこくきょうへい)
国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策。

安倍川餅(あべかわもち)
和菓子の一種。静岡市の名物。
本来はつき立ての餅に黄な粉をまぶし、その上から白砂糖をかけた物

冷泉家(れいぜいけ)
近衛中将に代々任官された羽林家と呼ばれる家柄の公家。
御子左家(二条家)の分家であり、冷泉小路に家名は由来する。
歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。

冷泉 為和(れいぜい ためかず)
駿河国・能登国・近江国など各地へ下向し、冷泉流歌道の指導を行っていたという。
中でも今川氏との関係は深く、駿府での生活が最も長かったとも、
今川氏より今川の名字の使用を許されたとも伝えられている。
今川氏の依頼により、相模国の後北条氏や甲斐国の武田氏のもとに滞在し、在地の歌壇を指導するなど、
今川氏の外交使節的立場の人間であったとも考えられている。

飛鳥井家(あすかいけ)
藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。

飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)
戦国時代の公家、歌人、蹴鞠家。官位は従一位権大納言。


おススメの本
廃城をゆく
はじめてのお伊勢まいり
はじめての家紋・家系図・名字―ルーツ探しの旅に出かけよう インデックス編集部
バロックの王 織田信長 渡辺 豊和 (著)
ハーバード白熱日本史教室 北川 智子 (著)



慧眼の士の予言者
今川治部大輔義元は桶狭間の敗戦以来「暗愚で軟弱な無能な武将」の酷評がつきまとう。

しかし、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、織田信長、豊臣秀吉とともに
「戦国七雄」に並び称される東海の雄である。

朝倉太郎左衛門尉教景(朝倉宗滴)が残した遺訓「宗滴話記」によると、

「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、

今川殿・甲斐武田殿・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利・織田上総介方

関東正木大膳亮方・・・」
と義元の事を評価している。

この一文からも今川義元は武将としても文化人としても超一流で東国有数の大名の一家と目されていた事が解る。



ここで注目すべきなのが織田三郎信長毛利少輔次郎元就だ。

教景が亡くなったのは天文二十四年(1555年)九月八日

後に西国最大の戦国大名になる毛利少輔次郎元就だが、そのきっかけとなった厳島の合戦は、
天文二十四年(1555年)十月一日であり、教景が亡くなった一ヶ月後のことである。
安芸の小規模な国人領主でしかない元就を正しく評価している。


また織田三郎信長に関してもそうである。
天文二十四年(1555年)というと織田弾正忠家を継承した信長が主家である織田大和守家から
尾張清洲城を奪取したばかりの頃で、尾張半国を治めるのに四苦八苦していた頃である。

さらに教景は臨終をむかえた際に信長の台頭を予言したとされている。

「織田上総介方行末ヲ聞届度念望計ノ事」

「織田上総介の行末をもう少しだけ見てみたい」と教景に思わせる程の成長株に見えていたに違いない。


戦国Check✓

朝倉 教景(あさくら のりかげ)
戦国時代の武将。通称は太郎左衛門尉。諡号は宗滴。越前朝倉家一門。
朝倉貞景、朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に仕え、一族の重鎮として各地を転戦し、武名を轟かせた名将。

毛利 元就(もうり もとなり)
室町時代後期から戦国時代の武将。幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。官位は従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、
中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
天文二十四年十月一日(1555年)、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。

安芸国(あきのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に位置する。別称は芸州(げいしゅう)。
領域はおおむね現在の広島市、呉市、尾道市、廿日市市、三原市など広島県西半部にあたる。
沼田郡、賀茂郡、安藝郡、佐伯郡、山縣郡、高宮郡、高田郡、豊田郡の八郡から成る。

国人領主(こくじんりょうしゅ)
直接農民層を支配していた国人。守護と対になる者。
当時、農民層を直接支配していたのは、地頭・荘官などの階層から在地の領主として成長していったのが
国人領主層であり、彼らが守護大名の被官となることでその軍事力を支え、
室町幕府や守護大名の動向を規定していったとするものである。

織田大和守家(おだやまとのかみけ)
尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。
尾張八郡の内、下四郡を支配する守護代。別称は清洲織田氏。
元々は尾張守護代の「織田伊勢守家」の分家にてその代官である又守護代の地位にあったという。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。




次回 第七十八話 三国同盟 ⇒



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