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成功者には決定的な共通点がある

 【05//2014】

誓い



弘治元年(1555年)
駿河今川家の人質となっていた松平竹千代が元服し、松平宗家を継承している。

弘治元年(1555年)四月
今川治部大輔義元烏帽子親(えぼしおや)として、竹千代は元服し、
松平次郎三郎元信と名乗りを改めた。


戦国Check✓

烏帽子親(えぼしおや)
元服儀式の際に加冠を行う者のこと。
中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になって貰い、
当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。
この仮親を烏帽子親と呼ぶ。



松平家当主
元服した事により、松平元信は松平家の正式な当主となり、三河松平宗家第九代当主を継承する。
しかし人質としての立場は変わらず、実質的には今川義元配下の一武将として扱われる状態であった。

当主となった元信は、祖先の法要と亡き父松平二郎三郎広忠の墓参の為、
一時的な三河岡崎への里帰りが許されている。
当時三河岡崎城は、今川家の管理下に置かれ、山田新右衛門尉景隆が城代として入り、
松平党の監視を行っていた。

大道寺孫九郎重祐が記した岩淵夜話(いわぶちやわ)別集によると、
七年振りに岡崎城に戻った元信は、景隆の居る本丸には入らず、二の丸に入ったと記されている。


その岩淵夜話に、

「岡崎は、わが祖先以来の旧城といへども、それがしいまだ年少のことなれば、

これ迄のごとく本城には今川より附置かれし山田新右衛門をその儘(まま)すゑ置れ、

それがしは二の丸に在て、よろづ新右衛門が意見をも受くべきなり」
と記されている。

元信の控えめであるこの様を伝え聞いた義元は、若年でありながら思慮深きことであると感歎(かんたん)した。



熟慮
元信は幼少期の人質生活の中で、
深い考え無しに行動するのではなく、行動することでどのような結果をもたらすのかを十分に熟慮(じゅくりょ)し、確認して行動する癖が自然と身についていた。
これこそが徳川家康を天下人にした由縁である。

仕事をする前に、たとえ数分間でもゴール(目標値)を定め、行動のシナリオを立て実行する。
ゴールの設定実行を計画計画通りに実行

元信は相手の行動に反射的に反応するのではなく、相手はどのような意図で話しているのか、
また行動しているのかをまず考えてから行動に移した。
自己に不利なことが起きても、腹を立てず、思慮深く考え、どうするのが最善なのか、
自己のことよりも相手のことや世の中のことに知恵を働かすことを徹底して行なったのである。


戦国Check✓

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

大道寺 重祐(だいどうじ しげすけ)
江戸時代の武士、兵法家。通称は孫九郎。後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫にあたる。
父繁久は松平忠輝に仕えた元越後高田藩士であったが、高田松平家が改易されて以来、重祐は浪人となっていた。
その後重祐は江戸に出て、小幡景憲、北条氏長、山鹿素行らに師事して甲州流軍学を学び、軍学者として身を立てる。
その博識を買われ芸州浅野広島藩、松平会津藩の客分を経て、越前松平福井藩に迎えられ、主に軍学を講じた。
晩年に「武道初心集」「岩淵夜話」「落穂集」などを著す。

岩淵夜話(いわぶちやわ)
大道寺重祐が記した、徳川家康の事跡についてをほぼ年代順に記した伝記。
写本は内閣文庫に幾つか保管されており、各説話にはタイトルは無く、一つ書きで書かれ、
巻なども分かれていない写本が多い。 
但し、同文庫の糟粕集(217-0028)に納められた二分冊には巻があり、
最初の一~二巻は、家康の出生から関東入国前までを含む三十一話が記されており、
後の三~五巻は、関東入国から関が原前後、大坂夏の陣の終りまでの説話を含む三十六話で構成されている。
家康の事跡や講話を通して武士道を伝えようとする重祐の意図が良く著わされており、
落穂集追加や駿河土産にある説話と同じものも幾つかある。



困窮
二の丸に入った元信は、岡崎城留守の大任に当たっていた鳥居伊賀守忠吉から、
松平党が今川家の先鋒として事実上の捨石とされている事や、
収穫期などで得た富の大半は今川家へ献上している為、松平党の日々の暮らしは困窮(こんきゅう)している事を
聞かされた。

鳥居家譜によると、
忠吉はその僅かな収益の中から、元信が戻って来る将来を夢見て、家臣一同倹約蓄財に励み、
今川家に内緒で備蓄していた武具兵糧金銭を元信に見せ、

我が君はやく御帰国ありて御出馬あらば、御家人をもはごくませ給ひ、

軍用にも御事欠まじき為に、かくは備置きぬ。

それがし八十の残喘もて、朝夕神仏にねぎこしかひありて、

今かく生前に再び尊顔を拝み奉ることは、生前の大幸何ぞこれに過ぎむや
と泣き崩れた。

食う物も食わず貧しさに苦しみながら、家臣の者たちが元信に夢を託していたことを知った元信は、
時節の到来するまではあらゆる凌辱(りょうじょく)を耐え忍び
必ずや岡崎に戻ると心に誓い感涙(かんるい)したという。



逆境
成功者には決定的な共通点がある。
「逆境」 それも、大きな逆境である。

逆境や、失敗を成功者は、バネにして向上していく。
逆境は、諦める為にあるのでは無く、バネにする為にあるのである。

「夢」の途中で逆境にぶつかったら、それをバネに頑張ればいい

「逆境での経験こそが人生の財産になる」

自動車会社フォード・モーターの創設者であり、「自動車王」として知られるヘンリー・フォード
富裕層でない人も購入できる車を作るという決意の元、会社を創業するのだがすぐに倒産してしまう。

その後も、再び会社を興すが、またしても倒産しトータルで5回の破産を経験する。
しかし、それでも諦めることなく挑戦を続けた結果、
T型フォードという世界で累計1,500万台以上も生産される自動車を生み出し、
産業と交通に革命をもたらしたのである。


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鳥居 忠吉(とりい ただよし)
戦国時代の武将。通称は伊賀守。三河国碧海郡渡城主。
三河国松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・松平広忠・松平元康(後の徳川家康)の三代に渡って仕えた。
生年は不明だが、没した時に八十余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。


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次回 第八十話 三河武士の忠誠心 ⇒



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