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 【14//2016】

三河武士の忠誠心


貧しさに苦しもうとも命を惜しまぬ三河武士の忠誠心は、
忠臣であった鳥居伊賀守忠吉によって松平党に植えつけられたものと考えられる。

忠吉は駿府に人質として預けられている幼君竹千代の遊び相手にと、
息子の彦右衛門元忠を駿府へ送っている。
この時、竹千代は十歳、彦右衛門は十三歳であった。



三河武士(みかわぶし)
酒井左衛門尉忠次本多平八郎忠勝
元信の主な家臣は三河武士で構成されている。

一般的に精強忠誠心が強く面倒くさいとされている。

松平次郎三郎元信(徳川家康)に仕えて、江戸幕府創業に貢献した譜代の三河出身の家臣を総称して
「三河武士」「三河衆」と呼ぶ。

語源は、大久保彦左衛門忠教著「三河物語」に、
「三河之者」「三河衆」とある。

また、「柳営秘鑑」にも「三河衆」とある。



戦国Check✓

酒井 忠次(さかい ただつぐ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は小五郎、左衛門尉。官位は従四位下左衛門督。三河松平氏譜代家臣。
徳川家康が幼いころから仕え、今川氏から自立して三河一国を支配した時点で吉田城をまかされ、「東三河の旗頭」
と呼ばれ、「西三河の旗頭」石川家成(のち甥の数正)と共に家康の「両家老」といわれた。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
戦国時代から江戸時代前期の武将。通称は平八郎。官位は中務大輔。三河松平家臣。
藤原北家兼通流本多家第十一代当主。
本多平八郎家初代当主。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。
生涯で五十七回の戦に参戦したが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと云われ、
徳川四天王、十六神将、徳川三傑に数えられる猛将。
家康の功臣として「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された名将。

鳥居 忠吉(とりい ただよし)
戦国時代の武将。通称は伊賀守。三河国碧海郡渡城主。
三河国松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・松平広忠・松平元康(後の徳川家康)の三代に渡って仕えた。
生年は不明だが、没した時に八十余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。

鳥居 元忠(とりい もとただ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。下総国矢作藩初代藩主。
人質時代から家康に付き従った家臣。徳川十六神将の一人。
姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどで功をたて、家康の関東入国にあたり下総国矢作城主となる。
関ケ原の戦いに際して伏見城の留守をまもるが、西軍の攻撃により戦死。





鳥居家譜によると、
「忠吉が子彦右衛門元忠をば、君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが、

君は十歳、彦右衛門は十三歳なり。・・・・・

そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと、彦右衛門に教へ諭し給ひけるが、

据方よからずとていからせ給ひ、橡より下に突き落し給ひければ・・・」



ある時、竹千代は鷹狩りを真似て、飼い育てていた百舌鳥(もず)を腕に乗せてみろと、
彦右衛門にやらせてみたが彦右衛門は据え方がよく解らず上手く出来なかった。

それを見ていた竹千代は怒りだし、彦右衛門を縁から突き落としたという。

その様子を見ていた大人達が、忠吉殿が忠誠を尽すあまり息子までお側に参らせているのに、
どうしてそのような仕打ちをなされるのかと、竹千代を諫めたという。



鷹狩
支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、日本書紀では仁徳天皇が鷹狩を好み、
タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録が残されている。

戦国武将の中でも特に松平次郎三郎元信は鷹狩を好み、
鷹匠組と言う技術者が側近として常に近侍することを命じていたようである。


戦国Check✓

鷹狩り(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、
餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

仁徳天皇(にんとくてんのう)
諱は大雀命、大鷦鷯尊。称号は天皇。第十六代天皇。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と
互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去により即位した。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の
茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。








忠吉の教え
彦右衛門を縁から突き落としたという話を伝え聞いた忠吉は、

「なみゝの君ならんには、御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに、

いさゝかその懸念おはしまさで、御心の儘に愚息をいましめ給ふ、

御資性の闊大なるいと尊とし。

この儘に生立せ給はゞ、行末いかなる名将賢主にならせ給ひなん」



並の主君であったなら、幼くても私のことを気にかけてしまうだろうが、そのようなこともなく、
お心のままに愚息をお叱りになったのは器量の大きい証拠だ。

このまま成長なされたなら、将来はどれほどの名将賢君になられるだろうかと感激し喜んだという。

これを聞いた者達は皆、忠吉の忠誠心に感じ入ったという。



戦国武士の全てがそうなのかは解らないが、三河武士の真情がよく伝わる逸話である。



またこんな仕打ちを受けた己が愛子である彦右衛門に対し忠吉は、
「彦右衛門汝は末永くつかへ奉り、萬につけてをそそかにな思ひそ」
と厳しく言い渡したという。

この忠吉の教えを忠実に守った彦右衛門は、
後年主君家康の命を受け、山城伏見城壮烈な最期を遂げるのである。




松平宗家のためなら自己犠牲もやむなし

この裏には
「いざというときは、忠義をつくした相手がきっと自分を守ってくれるだろう」
との期待が込められていたのではないだろうか。

また自分にできる最高の仕事をするためには、
家臣は主君と主君がめざすものに対する忠誠心を持っていなければならないとする忠吉の偏った考え方が
「自己犠牲もやむなし」という考え方になるのかもしれない。

「家臣は自己犠牲のもと100%御家に貢献し、見事なパフォーマンスを示す」

正規社員が減り、年功序列や終身雇用も崩れた現代においては考えられない「忠誠心」である。


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山城伏見城(やましろふしみじょう)
山城国紀伊郡伏見(現在の京都府京都市伏見区桃山町大蔵)にあった城。


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