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義を重んじ忠義を貫く男の姿

 【05//2014】

一番の宝


松平次郎三郎元信が祖先の法要と亡き父松平次郎三郎広忠の墓参の為、一時三河岡崎に戻っていた頃、
元信が領内の様子を知るため、鷹狩りを兼ねて領内を巡回していた時の逸話である。




その頃岡崎では、田植えの季節を迎えていた。
元信一行がそこを通りかかった時、慌てて田の土で顔を汚し、元信から避けるように逃げる者がいた。
元信はそれを見つけ「あれは近藤ではないか」と呼び寄せた。

岩淵夜話別集によると、

近藤もやむことを得ず面を洗ひ、田畔に掛置し腰刀をさし、身には渋帷子の破れしに縄を手強にかけ、

おぢゝはひ出し様目も当られぬ様なり



近藤は仕方なく顔を洗い、田の畔に掛けておいた腰刀を帯し、
破れた渋帷子(しぶかたびら)に縄襷(なわだすき)をかけたまま、目も当てられぬ様子でおずおず這い出してきた。
とても武士とは思えない姿であった。
近藤は元信に、武士が田植えをしている姿など恥ずかしくて見られたくなかったのである。

そんな近藤の様子をみて元信は、

そのときわれ所領ともしければ、汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず。

汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る。

さりとは不便の事なれ。

何事も時に従ふ習なれば、今の内は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて、世を渡るこそ肝要なれ。

憂患に生れて安楽に死すといふ古語もあれば、末長くこの心持うしなふな、いさゝか耻るに及ばず



元信は、十分な所領を持っていない為、家臣たちを養うことが出来ず、
家臣の者達に武家本来の暮らしをさせてやれず、貧しい思いをさせている事を不憫に思い、
「いずれ時が来るまで耐え忍び、決して今のこの姿を恥ることは無い」と、
涙を浮かべ近藤に詫びたという。

近藤もまた平伏したまま泣き顔を上げられなかったという。


戦国Check✓

岩淵夜話(いわぶちやわ)
大道寺重祐が記した、徳川家康の事跡についてをほぼ年代順に記した伝記。
写本は内閣文庫に幾つか保管されており、各説話にはタイトルは無く、一つ書きで書かれ、
巻なども分かれていない写本が多い。 
但し、同文庫の糟粕集(217-0028)に納められた二分冊には巻があり、
最初の一~二巻は、家康の出生から関東入国前までを含む三十一話が記されており、
後の三~五巻は、関東入国から関が原前後、大坂夏の陣の終りまでの説話を含む三十六話で構成されている。
家康の事跡や講話を通して武士道を伝えようとする重祐の意図が良く著わされており、
落穂集追加や駿河土産にある説話と同じものも幾つかある。




その様子を伝え聞いた古老の家臣達は、祖父松平二郎三郎清康によく似ていると涙を流し喜んだという。

後年、元信は関白太政大臣豊臣秀吉
「私にとって一番の宝は、私のために命を賭けてくれる武士五百騎である」
話したという。

家臣に全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せていた元信らしい逸話である。
若年でまだまだ未熟な元信と、松平家臣団との心の繋がりが、
後年「一番の宝は家臣である」と言わせたのかもしれない。
若き日の苦労と、この家臣団との結束が、元信を天下一の武将へと成長させていくのである。


人心
「天の時は地の利に如(し)かず地の利は人の和に如(し)かず」

天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばず、地勢の有利さも人心の一致には及ばない。 孟子の言葉である。

主君に命を懸ける家臣と家臣に全幅の信頼をおく主君

「人心の一致」により主従が固い絆で結ばれる三河松平家に天は二百六十五年間に及ぶ
安寧の世を与えたのかも知れない。

幕末の名君の一人とされる薩摩藩第十一代藩主島津左近衛権中将斉彬
「人心の一致一和は政事の要目なり」という言葉を残している。
すべての物事の要、その基盤となるのは人の和である

斉彬は、島津藩主家において唯一徳川家康の血を引く当主であり、
三河松平家に流れる人心の一致の精神を受け継ぐ者であった。

運命とは皮肉なものでその斉彬の身近にあって、強い影響を受けた西郷吉之助隆盛
江戸幕府は滅亡させられている。

戦国Check✓

関白(かんぱく)
天皇の代わりに政治を行う職。
律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位であった。敬称は殿下。

太政大臣(だじょうだいじん)
① 律令制で、太政官を総括する官職。
左右大臣の上位に位置するが、適任者がなければ欠官とされるなど、名誉職としての色彩が濃い。
② 明治政府の太政官の最高官職。
天皇を助け、国政全般を統轄する。

孟子(もうし)
戦国時代中国の儒学者。
儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
江戸時代後期から幕末の外様大名。通称は又三郎。官位は従四位下侍従、兵庫頭、豊後守、左近衛権少将、修理大夫、
薩摩守、従四位上左近衛権中将。薩摩藩第十一代藩主。島津家第二十八代当主。
藩営の工場集成館を設立し、殖産興業、富国強兵策を進める中、養女篤姫(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして、
幕府への発言力を強める。
将軍継嗣問題では西郷隆盛らを用いて一橋慶喜擁立運動を進めたが、安政五年七月十六日急死。

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
幕末・明治維新期の武士・軍人・政治家。通称は吉之介。維新の十傑の1人。
薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、
当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。
斉彬の急死で失脚し、奄美大島、沖永良部島に流されが、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、
禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、江戸無血開城を成功させている。



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