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親への感謝と敬愛、礼節を説く

 【17//2016】

長良川の戦い



骨肉相争う
弘治二年(1556年)四月二十日、辰の刻

斎藤新九郎義龍が、家督相続により起った内乱を制圧する為に動き出したのを見て、
敵対行動をとっていた斎藤山城守道三が、長良川まで進軍し、両者が激突する。



信長公記によると、

一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、

散々に入りみだれ、相戦ふ。

終に竹腰道塵合戦に切り負け、山城道三竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足侯ところ、

二番鑓に新九郎義龍、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ侯。

義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。

叉、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、

柴田角内、晴れがましき高名なり
と記されている。


義龍勢の先鋒竹腰摂津守道塵の突撃で長良川の戦いは始まった。



長良川の戦い

弘治二年(1556年)四月二十日

斎藤山城守道三とその嫡男斎藤新九郎義龍との間で行われた合戦。

名門土岐氏に替わって美濃国主となった道三は、嫡男義龍に国を譲り隠居した。
しかし、道三と義龍の不仲は深刻なものとなり、道三は義龍を廃嫡し、
自身が寵愛する義龍の弟を跡継ぎにすることを考えるようになった。

そうした動きに気付いた義龍は、美濃稲葉山の屋敷に二人の弟孫四郎龍重喜平次龍定を呼び寄せると、
寵臣(ちょうしん)の日根野備中守弘就に暗殺させ、骨肉相争う事態となった。

道三が国主となるまでの経緯もあってか、家中の大半は義龍を支持し、義龍軍一万七千五百に対し、
道三が動員できたのはわずか二千七百と義龍が有利であったとされる。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

土岐氏(ときし)
家系は清和天皇を祖とする清和源氏の一つ摂津源氏の流れを汲む美濃源氏嫡流として美濃国を中心に栄えた。
五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三か国の守護大名となった。
家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。
土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。
「土岐桔梗」と呼ばれ、旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。

斎藤 龍重(さいとう たつしげ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は右京亮、雅楽助。美濃国主 斎藤山城守道三の次男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

斎藤 龍定(さいとう たつさだ)
戦国時代の武将。通称は喜平次。官位は玄蕃。美濃国主 斎藤山城守道三の三男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

日根野 弘就(ひねの ひろなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は徳太郎、備前守、備中守。美濃斎藤家家臣。美濃本田城主。
斎藤道三・義龍・龍興の美濃斎藤家三代に仕えた重臣であったが、斎藤家滅亡後、遠江国の今川氏真に仕えた。
今川没落後は、浅井長政に仕えた。
その後、織田家、豊臣家に仕え、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に参加するものの、
西軍内通の証拠を隠滅した疑いで自害させられている。



激戦

六百ばかりの手勢を率い、一丸となって義龍派の竹腰勢は、道三の旗本へ切りかかった。
双方散々に入り乱れ激戦となったが、最終的には竹腰勢が押される形となり、
竹腰摂津守道塵は道三勢に討ち取られた


道塵討死の報を受けた道三が床机に腰掛け笑みを浮かべたところ、竹腰勢の壊滅を聞いた義龍が、
自ら旗本勢を率い長良川を越え進軍

この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門という者が、ただ一騎前へ進み出て武者名乗りをあげ、
道三勢に挑みかかった。
道三勢からは柴田角内という武者が出て、両軍の間で一騎打ちが始まった。

柴田角内が、長屋甚右衛門の首を挙げ、道三勢の士気が上った。
道三はここぞとばかりに全軍に突撃を命じ、迎え撃つ義龍もまた全軍に突撃を命じた。


双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、しの木をけづり鍔をわり、爰かしこにて思ひ貼の働きあり、

長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、

あら武者の小真木源太走り来なり、山城が鐘を薙ぎ臥せ、頸をとる。

忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり



双方がぶつかり合い、入り乱れ、火花を散らして戦い、激戦となった。
数で劣る道三勢は次第に押され、道三率いる旗本勢が崩れかけた時、
義龍勢の長井忠左衛門尉道勝が突進して道三に組み付いた。


戦国Check✓

長井 道勝(ながい みちかつ)
美濃斎藤氏の家臣。通称は忠右衛門尉。
はじめ、父の道利とともに斎藤道三に仕え、弘治二年(1556年)、長良川の戦いでは父とともに斎藤義龍側に付いた。
道三・義龍・龍興と三代に仕えるが、斎藤氏滅亡後は、井上姓に改め、豊臣秀吉に仕えた。
のち弟の頼次とともに黄母衣衆に加わったというが定かではない。



范可

道三を生け捕りにした長井道勝は、そのまま義龍へ引き渡そうと考えた。
旧主でる道三の首を討つことをためらったものと思われる。

そこへ小牧源太道家が走り寄り、道三の首を切り功を挙げたのである。
下克上の世における戦場では道勝のそんな思いなどは通用しない。

功を奪われた道勝は、後の証拠の為にと道三の鼻を削ぎ落としその場を退いた。

旧土岐氏の勢力に支えられた新九郎義龍は、蝮の異名を持つ梟雄斎藤山城守道三を討ち果たし、
名実ともに美濃国主となった。

義龍を「無能」と評した道三は、この長良川の合戦で、義龍の卓越した戦略戦術を目の当たりにし、
戦国大名としての器量を充分に備えていた事を知り瞠目したという。


合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。

此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしなりけり。

是れより後、新九郎はんかと名乗る



合戦が終り、首実検が行われ道三の首が運ばれてきた時、義龍は、
「これは私の不徳より出た罪である」と言い出家している。
是より後、義龍は新九郎范可(はんか)と名乗ったという。

范可(はんか)とは中国唐の時代の人物で、
止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つという人物である。

弟二人は殺したものの、父道三を殺す気は義龍には無かったのかもしれない。
戦国の世とはいえ、父を殺してしまった義龍は、古事にある范可に身を重ね合わせ、悲しみを感じていたのである。


戦国Check✓

小牧 道家(こまき みちいえ)
美濃斎藤氏の家臣。通称は源太。
斎藤道三と嫡子義龍の対立時には義龍側に属したが、長良川の合戦で敗死して晒された道三の首を盗み出し、
長良川畔に懇ろ(ねんごろ)に葬ったと伝えられる。


大罪
春秋時代の中国の思想家であり儒家の始祖でもある孔子もまた、いくら世が乱れていようとも
「親殺し」「主君殺し」はあってはならないと「春秋」を編纂している。


世衰え、道微して、邪説暴行作る有り。

臣にして其の君を弑する者これ有り、子にして其の親を弑する者これ有り。

孔子懼て、春秋を作る。

春秋は天子の事なり。

是の故に孔子曰く「我を知る者惟だそれ春秋かな、我を罪する者惟だそれ春秋かな」

(「孟子」滕文公章句下より)


世が乱れに乱れきったとき、道徳は廃れ、邪説ははびこり、犯罪が横行するようになった。
家臣の身で君主を殺す者や、子の身で親を殺す者が現れるようになった。
孔子は、世の混乱を恐れ、事実を残す必要性を感じていた。
善行を善行として、悪行を悪行として歴史を書き連ねていくことが、世の安寧のために必要であると考えたためだ。



この儒教の「親への感謝と敬愛、礼節を説く」の教えは
日本の刑法第二百条に大きな影響を与えていると考えられるが、現在は「削除」とだけ書かれている。
刑法第二百条の条文は過去に大きな論争を巻き起こし廃止となった。

刑法第二百条
「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」

自分や結婚相手の直系尊属(父母、祖父母など)を殺した者は、死刑又は無期懲役にする
という条文が、かつては刑法の条文として存在していた。

刑法第二百条では、直系尊属を殺すと刑法第百十九条の「殺人」よりも罪が重くなると言うことである。
言い換えれば「親殺し」「子殺し」よりも大罪であるという訳だ。
しかし、現代の日本ではその考え方が見直されている。

日本国憲法第十四条で全ての日本人が「法の下に平等」であると謳われているからだ 。


戦国Check✓

春秋時代(しゅんじゅうじだい)
中国の時代区分の一つ。
紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した
紀元前403年までの約360年間を指す。

孔子(こうし)
中国、春秋時代の学者・思想家。
早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、
十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心し、後世、儒教の祖として尊敬され、
日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。

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