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殿軍の将たる人間の在り方

 【05//2014】

殿



瞠目(どうもく)
※驚いたり感心したりして、目をみはること

長良川の合戦は、斎藤山城守道三討死により、斎藤新九郎義龍の勝利に終わった。

勝利に士気が上る義龍勢は、
すぐさま道三の援軍として出兵していた織田上総介信長が陣を構える尾張大良の東蔵坊へ軍勢を差し向けた。

勢いに乗る義龍勢の猛攻に、信長勢は成す術が無く、山口取手介土方彦三郎信治などが相次いで討死。

森三左衛門可成もまた、義龍勢の千石又一と馬上にて渡り合い、膝を斬られ退いている。

「無能」と聞いていた義龍の卓越した戦略戦術を目の当たりにした信長は、
義龍が戦国大名としての器量を充分に備えていた事を知り瞠目する。


戦国Check✓

大良(おおら)
尾張国葉栗郡大良(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)辺りの地。

森 可成(もり よしなり)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。美濃 金山城主。
清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁鎮守府将軍八幡太郎義家の七男、陸奥七郎義隆の子孫にあたる。
同じ織田氏家中には同族で毛利広盛がいる。
森氏は美濃国の守護大名である土岐氏に代々仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、尾張国で織田信長に仕えた。
可成は槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手であり、武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
また、指が一本欠けており、手足の指が合わせて十九本であったため「十九」という蔑称で呼ばれる事もあった。



凶報
信長勢劣勢の状況下で、さらに追い討ちをかける報せが信長の下へ届いた。

「山城守道三、新九郎義龍と一戦を交え、長良川河畔にて討死」

この報せを聞いた諸将は一旦本陣まで兵を引き、信長の指示を仰いだ。
劣勢局面で突如発生した深刻な問題に、諸将は動揺し始めていた。


信長公記によると、

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ、

上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おの貼打ち越え侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来なり侯



信長は堂々とした落ち着いた様子で、動揺し慌てる諸将を抑え、下知(げち)を飛ばした。
背後は大河である為、急ぎ足の重い雑人、牛馬を退かせよ、汝らはそのあとにゆるゆると退くべし。
殿(しんがり)は信長が引き受ける為、皆心配は要らぬ

落ち着いた声で下知を飛ばす信長の言葉に、諸将は落ち着きを取り戻し、全軍は退却を始めた。
殿を引き受けた信長は、わずかな供回りを率い、前方より現れた追撃軍の騎馬武者と川端で対峙した。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

下知(げち)
上から下へ指図すること。命令。



殿(しんがり)
後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指し、後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう。

殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護(えんご)することを目的とするため、
本隊からの支援援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない
最も危険な任務であった。
そのため古来より武芸、人格に優れた武将が務める大役とされてきた。

「掩護」と「援護」
掩護:味方の行動や拠点を敵の攻撃から守ること。転じて、かばって危険から守ること
援護:困っている人をかばい助けること


其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近貼とは参らず、さて、御舟にめされ、御こしなり


その時、信長は轟然(ごうぜん)と鉄砲を放った
響き渡る轟音に、勢いを呑まれた斎藤勢の騎馬武者は、渡河を躊躇(ちゅうちょ)し、追撃の手を止めた。
川を渡り終えた自軍の兵を確認した信長は、悠然(ゆうぜん)と残しておいた船に乗り退却したという。



敵対
斎藤山城守道三の死美濃国だけでなく、隣接する尾張国の状勢にも変化をもたらした。

尾張上四郡の支配者である織田伊勢守信安が、美濃国主となった斎藤新九郎義龍と結託し、
反信長勢力として敵対行動をとるようになった。

そして信安に呼応(こおう)した反信長勢力は、尾張下四郡でも起こり、
信長に反旗をひるがえす者が相次いだのである。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張上四郡(おわりかみよんぐん)
尾張国春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡に及ぶ範囲。

尾張下四郡(おわりしもよんぐん)
尾張国海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡に及ぶ範囲。

織田 信安(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は三郎、七兵衛尉。官位は伊勢守。織田伊勢守家第五代当主。
別称は岩倉織田氏。尾張上四郡守護代。尾張岩倉城主。
尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)の出身者とされる。
一説によると父 織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主なるが、まだ幼かったため、
織田大和守家の家臣筋「清洲三奉行」の一家 織田弾正忠家当主織田信秀の弟 犬山城主織田信康の補佐を受けた。
信長とはその父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、
幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。


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次回 第八十八話 父殺しの汚名 ⇒



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