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改名や改姓の届出には何が必要ですか

 【05//2014】

父殺しの汚名



弘治元年(1555年)十月二十二日

斎藤新九郎義龍は、伯父である長井隼人正道利と共謀し、
父山城守道三が寵愛する弟の孫四郎龍重喜平次龍定を殺害し、父山城守道三と対立する。



翌弘治二年(1556年)四月二十日

新九郎義龍は旧土岐氏の勢力に支えられ、
大軍を率いて蝮の異名を持つ梟雄山城守道三を長良川において討ち果たし、名実共に美濃国主となる。




領国
美濃国主となった義龍は守護領国制の旧体制を廃止し、独立した戦国大名として領国経営に着手する。

義龍は幕府権力による守護使不入地(しゅごしふにゅうち)を全面否定し、
室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、
自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを世に宣言したのであった。

義龍はまず手始めに、貫高制(かんだかせい)に基づいた安堵状(あんどじょう)を発給し、
内乱により混乱した所領問題を処理するなどに努めた。



貫高制(かんだかせい)
土地の収穫高を、通貨単位であるを用いて表した統一的な土地制度税制軍制のことで、
主に戦国時代 織豊期(しょくほうき)の戦国大名の領国において普及し、
統一的な賦課(ふか)基準として知行役軍役諸役賦課体制(しょやくふかたいせい)の基礎となった。

田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表された。
これを貫高(かんだか)といい、それを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼ぶ。
※同じ貫数でも土地の条件などによって実際の面積は異なる。

また、武家の知行高も貫で表し、貫高に基づいて負担する軍役を定めた。
田には1段あたり五百文、畑は1段あたり百五十から二百文を標準として、永楽銭あるいはで納めさせた。

戦国大名の貫高制は国人領主層在地小領主層を知行制により家臣団として編成するのと同時に、
年貢集取による在地支配を行うシステムでもあった。

また、義龍は道三のような独断専行政治を行うのではなく、「宿老」と呼ばれる重臣の意見をよく取り入れ、
家臣団の不満を解消するなど卓越した領国経営を発揮し、新美濃斎藤氏の基盤を築いた


戦国Check✓

守護領国制(しゅごりょうごくせい)
室町時代の守護大名による一円的な領国支配体制を指す歴史概念。
鎌倉幕府の中央集権的体制が崩壊後、室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態。

守護使不入(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において、幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、
幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。
幕府直轄領の立ち入り禁止。
守護不入(しゅごふにゅう)ともいう。
しかし、戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が自らの権限として、
これを授け、与えるようになる。

織豊時代(しょくほうじだい)
日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代。
安土桃山時代(あづちももやまじだい)ともいう。

諸役賦課(しょやくふか)
諸種の役目や種々の職に対して、課せられる税金。年貢。

宿老(しゅくろう)
十分に経験を積んだ老人を指す言葉であり、そこから転じて古参の臣や家老など重要な地位に就く者の総称。




改姓
逸話ではあるが道三を討った義龍は、父殺しの汚名を避けるため足利氏の一門である一色氏を称して、
一色左京大夫義龍と名乗っている。

義龍の母深芳野(みよしの)の父が、一色左京大夫義清であるとも言われており、
そこから一色姓を名乗るようになったとも言われるが信憑性にかける逸話である。

また義龍は、土岐氏旧臣である桑原氏・安藤氏・日根野氏・竹腰氏らに一色家重臣の姓を名乗らせている。

安藤日向守守就は  → 伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元は  → 氏家常陸介直元
竹越新介尚光は    → 成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就は → 延永備中守弘就と名を改めさせている。

理由は解らないが、家臣にまで改姓させている事から義龍の一色氏への改姓は本気だったのかもしれない。
しかしなぜ義龍は土岐氏の後継者として土岐姓を名乗らなかったのか。

義龍は「土岐左京大夫頼芸の忘れ形見」と称し、旧土岐家家臣団の支持を得て大義名分の下、
父山城守道三を討つ事に成功している。

父殺しの汚名を避けるための改姓であるならば、
土岐姓を名乗ったほうが良かったのでは無いかと思うが・・・・よく解らない。


戦国Check✓

深芳野(みよしの)
斎藤道三の側室。一色右京大夫の女というが不詳。
もとは美濃土岐家の頼芸の側室で、大永六年(1526年)頃から道三の側室になった。
一説に、義龍の生は土岐頼芸の落胤説があるが、これは義龍の生母を深芳野と仮定したことによる俗説である。

一色 義清(いっしきよしきよ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は左京大夫。丹後一色家第十二代当主。
丹後の守護を務めたが、若狭武田氏の介入や、守護代延永氏の下克上にあい国内は混乱した。
また、一説には土岐頼芸、次いで斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが詳細不詳。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。


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