2017 05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30. »  2017 07

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

仲の悪い兄弟っていったいどんな感じ

 【22//2014】

家督争い勃発・弟の謀反



織田上総介信長の同母弟である二歳違いの勘十郎信行は、「うつけ者」と呼ばれた兄に比べて
優秀な弟として家臣より認められる存在であった。

特に母親である土田御前は、同じ実子ながらも、嫡子であるがゆえに共に暮らすことを許されなかった信長に比べ
常に共に暮らしてきた弟信行に一辺倒の愛情を注いでいた。

そして、信長に替わって信行を織田弾正忠家の当主に立てたいと考えるようになっていた。
しかも、筆頭家老である林佐渡守秀貞もまた、信長を廃し、信行に織田弾正忠家の家督を譲らせようと企んでいた。


戦国Check✓

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。



土田御前(どたごぜん)
織田弾正忠信秀継室(織田大和守達勝息女が最初の正室であるが離縁)。
実名は不詳。別称は花屋夫人。法名は報春院花屋寿永大禅尼。

三郎信長勘十郎信行喜六郎秀孝の生母と言われているが
土田御前の出自については正確なところは不明である。

「土田」という呼び名であるが、
美濃可児郡の土田であれば「どた」
尾張国海東郡の土田であれば「つちだ」となる。

定説では美濃国可児郡土田の豪族土田下総守政久の息女とされているため、
「どた」が正しいとされているが異説もある。

織田と土田

「津島大橋記」「干城録」によれば、
三郎信長の生母は、美濃国厚見郡薮田の豪族小嶋日向守信房の息女とされている。
もしこの人物が土田御前以前の信秀継室である場合、土田御前は小嶋信房息女に続く三番目の継室となる。

織田達勝息女小嶋信房息女土田御前という訳だ。

小嶋信房と織田弾正忠家との関係は深いものがある。
「津島大橋記」によると、

而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女,大橋清兵衛重長ニ入輿ス

この一文には一部誤りがある。

大永年間に織田信長はまだ生まれておらず仮に信秀の娘としても信秀はまだ十四歳であり、相当無理が有る。
大橋家に嫁いだ御蔵の方は信定の娘ということでなければ辻褄(つじつま)があわない。

大永年間(1521年~1527年)初頭より津島衆織田弾正忠家との間では諍(いさか)いが絶えず行なわれていた。

織田弾正忠信定は津島を武力制圧し、支配下に入れるが、
武力で押さえこむよりも織田の武力を見せつけた上で和睦し、経済基盤を得るほうが得策と考えた信秀は、
生駒因幡守家宗の仲介により津島南朝十五党の党首大橋清兵衛重長御蔵の方を輿入れさせて
津島との繋がりを強固なものとした。

これにより織田弾正忠家は津島の経済力を元に主家である織田大和守家をも上回る力を手に入れるのである。

この輿入れの際、御蔵の方は小嶋信房の養女として輿入れしており、信房と織田弾正忠家の関係の深さが伺える。

また、三七郎信孝が伊勢国河曲郡の神戸氏の家督を相続した際、
山路弾正種常に代わり伊勢高岡城主に任命された小嶋兵部少輔は、小嶋信房の縁者という説がある。

もし土田御前と呼ばれる人物そのものが、本来は小嶋信房息女と同一人物であり、
その娘が土田政久の養女となり織田信秀に嫁ぐことになったという事はないのだろうか・・・・


戦国Check✓

織田 達勝(おだ みちかつ)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第七代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。

土田 政久(どた まさひさ)
戦国時代の武将。官位は下総守。生駒親重と同一人物とも言われている。
美濃国可児郡土田(どた)の豪族とも、尾張国海東郡土田(つちだ)の豪族とも言われる。
父土田秀久は尾張小折郡の土豪生駒家広の娘を嫁に迎えたが、後に離縁して実家の生駒家に返した。
しかし娘は既に子を身籠もっており、尾張の生駒家で産まれたのが政久であるという説もある。

大橋 重長(おおはし しげなが)
戦国時代の武将。織田弾正忠家家臣。通称は清兵衛。
織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿に当たる。
大橋家は尾張津島の有力な豪族で織田家と親密な関係に早くからあり、
そのため重長の時代には信秀の娘を正室に迎えて信秀・信長に仕えた。

織田 信孝(おだ のぶたか)
安土桃山時代の武将。官位は従五位下侍従。織田信長の三男。神戸織田家初代当主。
信長の命で伊勢の神戸具盛の養子となる。
天正十年本能寺の変の際は四国攻めの総大将であったが、羽柴(豊臣)秀吉と合流し、明智光秀を討つ。
清洲会議後、美濃岐阜城主。
のち秀吉と対立し、柴田勝家と共に挙兵するが賤ケ岳の戦いで勝家が敗れたため岐阜を開城、天正十一年五月二日自害。



廃嫡
三郎信長土田御前は本当に血の繋がった母子なのだろうか・・・・

共に暮らすことを許されなかった信長に愛情を注ぐことは土田御前にはできなかった。
そしてなにより信長の狂気を受け入れることができなかった。

尾張清洲城乗っ取りに功のあった叔父孫三郎信光を謀殺することもあえてやってのける
信長の狂気に恐れた土田御前は、最愛の勘十郎信行に助けを求めるようになっていたのかもしれない。

信長公記によると、

さる程に、信長公の一おとな林佐渡守、其の弟林美作守・柴田権六申し合せ、三人として、

勘十郎殿を守り立て侯はんとて、既に逆心に及ぶの由、風説執々なり
とある。


宿老の林佐渡守秀貞、弟の林美作守通具柴田権六勝家とが結び、
上総介信長に叛いて勘十郎信行を立てるべく画策しているとの風聞が取沙汰されるようになった。


林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。こめのゝ城、大脇の城、清洲となご屋の間にあり。

是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候



林秀貞を寄親としていた尾張荒子城主前田縫殿助利春が敵方となり、米野城・大脇城とつぎつぎと敵方にまわり、信長の敵対勢力が次第に大きくなり兄弟の仲は次第に険悪なものになっていった。


戦国Check✓

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

寄親(よりおや)
主従関係などを結んでいる者を親子関係に擬して、その主をいう語。
特に、戦国大名は有力な武将を寄親とし、在地土豪などを寄子(よりこ)として軍事組織を編制した。

尾張荒子城(おわりあらこじょう)
尾張国海東郡荒子(現在の愛知県名古屋市中川区荒子町)にあった城。

前田 利春(まえだ としはる)
戦国時代から安土桃山時代の武将。尾張国荒子城主。別名利昌。官位は蔵人、縫殿助。
子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。
尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、二千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。




弘治二年(1556年)八月

林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。

信長御台所入りの御知行、篠木三郷押領。


秀貞に担がれた勘十郎信行は、
三郎信長の直轄地である篠木三郷を押領(おうりょう)して砦を構えた事により、
兄弟の間に決定的な亀裂が入ることになった。





おススメの本
海王
覚悟が決まる 人生が変わる 戦国武将の言葉
家系図の世界―あなたのルーツを辿ってみよう!
影武者徳川家康
稼ぐギャンブル
学校では習わない 愛と夜の日本史スキャンダル
勝手に売れていく人の秘密
火天の城
家紋の世界―あなたのルーツはここにあった!
考える力をつくるノート


次回 第九十一話 稲生の原の戦い ⇒



CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ


スポンサーサイト

Category: 弘治記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。