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息子の過ちの許しを請う母

 【13//2015】

内部抗争の決着・勘十郎信行の死


弘治二年(1556年)八月二十四日
織田弾正忠家で起きた家督争いから発生した稲生の原の合戦において、
織田上総介信長は多くの首級(しゅきゅう)を挙げ、その日のうちに尾張清洲城に帰城している。

翌日首実検をおこなったところ、
取った首級は林美作守通具をはじめとしてその数、四百五十にのぼったという。

この合戦後、信長は叛旗を翻した信行勢に対して非常に寛大な措置を見せた。

謀反を起こした勘十郎信行を特に罰することもなく、赦免(しゃめん)している。
しかも信長は、林佐渡守秀貞柴田権六勝家にも罰を与えなかったのである。


戦国Check✓

稲生の戦い(いのうのたたかい)
弘治二年(1556年)八月二十四日に、現在の名古屋市西区で起きた戦い。
尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟織田信行との家督争いから起きた戦い。
稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。


赦免嘆願

御袋様の御使として、色々様々御詫言にて、御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、

御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり



土田御前は、さまざまに詫び言を伝え、信行の赦免を頼み込んだ為、信長はこれを許している。

勘十郎信行 柴田権六勝家 津々木蔵人は、
墨染めの衣姿で土田御前と共に尾張清洲城に現れ赦免の礼を述べたという。

信長の寛大な措置は、内部分裂による織田弾正忠家の弱体化を防ぐ為の処置であった。


戦国Check✓

土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。
法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。

津々木 蔵人(つづき くらんど)
末森城主織田信行の近臣。津々木は都筑、都築とも書かれる。
「信長公記」によると、天文二十四年(1555年)六月、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵が
織田信長、信行の弟 秀孝を射殺し、信次は逐電。
信行は守山城下を焼き払い、その後守山城攻囲のため大将として派遣したのが柴田勝家と津々木蔵人であった。
蔵人は信行の若衆で、柴田勝家と並ぶ地位を占めていた。
信行の死後、蔵人の消息についての記述はなく、不明である。







しかしこの二年後、再び謀反を企てた信行を信長は殺害している。

謀反を企てた信行を、元腹心であった勝家が信長に密告したため、
信長は信行を清洲城北櫓天主次の間に呼び寄せて殺害する。

この頃、信行と勝家の主従関係は微妙な関係となっていた。
信行は従来の腹心であった柴田勝家を遠ざけ、津々木蔵人と言う者を優遇し、腹心としている。

勝家もまた稲生の原の合戦以降、信長に心を寄せるようになっており、
勝家の心は少しずつ信行から離れていったのである。

信行は有力な家臣をみなこの津々木蔵人の配下に付け、再度謀反を企て
その総司令官的なポストに津々木蔵人を配置している。

津々木は有頂天となり、重臣である柴田勝家をないがしろにする始末であった。

人の心を掌握できなかった信行は、元腹心であった勝家により謀反の計画を密告されてしまうのである。
計画をしった信長は、病気と称して気弱な手紙を土田御前に送っている。
驚いた土田御前は、信行に見舞いに行くように懇願し、すでに信行を見限っていた勝家もそ知らぬ顔でこれを勧めた。


弘治三年(1557年)十一月二日
病気見舞いに訪れた信行は、清洲城北櫓天主次の間で、
信長の乳兄弟である池田勝三郎恒興によって斬られ絶命する。

最愛の息子を失った土田御前は、以後信長に引き取られるが、
信行を殺された憎しみを生涯抱いたまま息子信長と暮らすことになる。

皮肉にも土田御前は、兄弟の殺し合いから織田家の没落までを見届けることになる。

また「池田家履歴略記」によると、
信行を討った池田恒興に信長は事後処理として、恨みを残さぬようにと信行の未亡人を妻に迎えさせ、
遺児を引き取らせている。

信行未亡人はのちに池田家の繁栄をもたらした古新を生むことになる。
のちの池田三左衛門輝政である。

こうして弟との戦いに決着をつけた上総介信長は、尾張統一に向けて歩み始めることになる。


戦国Check✓

池田 恒興(いけだ つねおき)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は勝三郎、官位は紀伊守(自称)。
織田弾正忠家臣。織田信長、豊臣秀吉に仕える。清洲会議における四宿老の一人。
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
信長の乳兄弟であり輝政の父であることからついた名ではないかと思われる。

池田家履歴略記(いけだけりれきりゃくき)
池田家歴代の重要事件を編年で記述したもの。
著者は岡山藩士の斎藤一興。全二十六巻。

池田 輝政(いけだ てるまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は三左衛門。官位は武蔵守、侍従、右近衛少将、参議。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。播磨姫路藩初代藩主。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれる。
信長、秀吉に仕え、豊臣時代には、豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。
また、関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、
福島正則とともに功を挙げた。

おススメの本
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