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将来にわたる禍根を断つという観点から考える

 【09//2014】

明智一族


弘治二年(1556年)四月二十日
斎藤山城守道三を討ち果たし、名実共に美濃国主となった斎藤新九郎義龍は、

弘治二年(1556年)九月二十五日
明智十兵衛光秀の出生の地とされている、美濃国明智荘長山の美濃明智城(別名:長山明智城)を三千七百の軍で攻め落としている。


戦国Check✓

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

明智 光秀(あけち みつひで)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は十兵衛、惟任。官位は日向守。土岐氏流明智家第九代当主。
戦国大名 織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名な人物。
諸学に通じ、和歌、茶の湯を好んだ文化人であり、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、
現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。

美濃明智城(みのあけちじょう)
美濃国可児郡明智庄(現在の岐阜県可児市瀬田長山)にあった城。



明智
土岐系図によると、
鎌倉時代末期 土岐氏中興の祖で、足利尊氏に従って軍功を挙げた土岐伯耆守頼貞の九男 九郎頼基が、
明智氏の祖とされている。
頼基は、美濃国恵那郡明智荘の地頭となり、荘名をもって姓としたと伝えられる。

しかし土岐系図 続群書類従では、
明智氏の祖とされていた土岐九郎頼基の子 彦久郎頼重明智氏の祖としている。

また、美濃国諸旧記によると、
美濃明智城は可児郡明智庄長山城のことであり、
土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐明智民部大輔頼清の二男、土岐明智二郎下野守頼兼
康永元年(1342年)三月
美濃国可児郡明智庄長山に始めて明智城を築城し、光秀の代まで居城したとある。

土岐氏流明智家のルーツは未だハッキリしないが・・・
東美濃の統治のかなめとして、土岐総領家より明智荘を与えられ分家して明智氏を称した事は解る。
その人物が築城した明智城こそが、以後二百十四年間の長きに渡り東美濃明智宗家の本拠となった城である。


戦国Check✓

土岐 頼貞(とき よりさだ)
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。官位は伯耆守。初代美濃守護。美濃土岐家第四代当主。
鎌倉末期に北条得宗家との結び付きを強めて勢力を拡大し、建武新政時には足利尊氏に属す。
尊氏から「御一家の次、諸家の頭」、「土岐絶えば足利絶ゆべし」とまで信任されたという。
土岐氏で初めての美濃守護となり、以後の土岐氏発展の基礎を築いた。
諸系図には「歌人、弓馬上手」とあり、勅撰集にも多くの和歌を残している。

明智 頼重(あけち よりしげ)
南北朝時代の武将。通称は彦久郎。美濃守護土岐頼貞の九男頼基の子。土岐氏流明智家初代当主。

土岐 光衡(とき みつひら)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。官位は従五位下、蔵人、左衛門尉。鎌倉幕府御家人。美濃土岐家初代当主。
治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。
平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となり、建久四年(1193年)に源頼朝が富士裾野へ夏狩に出掛けた際、
これに随行した「土岐三郎」は光衡であると推定されている。
美濃国土岐郡一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされることから、実質的な土岐氏の祖とされる場合が多い。


光秀
享禄元年(1528年)
明智十兵衛光秀がこの地に誕生する。
幼名は桃丸

光秀の幼少期は、謎に包まれており、生年や生まれた場所、父親の名前など数多くの諸説が存在するが、
最近の研究により少しずつ解き明かされてきている。

天文七年(1538年)
病弱であった父明智安芸守光綱が急死すると、幼少であった桃丸に代わり、
叔父である明智兵庫頭光安が明智城代を勤め、桃丸自身は寺に入り武術や学問の修行をおこなった。

天文十二年(1543年)
十五歳になった桃丸は、元服し明智十兵衛光秀と名乗りを改め斎藤山城守道三に仕える。

この頃の明智家は美濃斎藤家と縁戚関係にあった。
土岐家から美濃国を奪い取った斎藤山城守道三は、東美濃の土岐一族への懐柔策として、
明智光継の娘小見の方を正室に迎えていたからだ。

小見の方の甥であった光秀は道三の近習として仕え、道三から兵法だけでなく諸国の兵器や軍備についても学び、
その知略才覚で次第に頭角をあらわす様になる。

しかし弘治二年(1556年)
長良川の合戦で父道三を討ち取り美濃国主となった新九郎義龍は、
道三と深い血縁関係で結ばれていた明智一族の討伐に動き出すことになる。


戦国Check✓

明智 光綱(あけち みつつな)
戦国時代の武将。別名は光国、光隆。土岐氏流明智家第八代当主。
斎藤道三に仕え、のち義龍による美濃明智城攻めで討死したといわれるが、評細は不明。
「明智軍記」などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。

明智 光安(あけち みつやす)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は兵庫頭。明智光継の三男。明智光秀の叔父。
美濃国明智城主の家督を継いでいた兄光綱が若くして亡くなると、その子光秀がまだ幼かったため、
隠居していた父光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。
一説には光秀が家督を固辞したとも言う。

小見の方(おみのかた)
戦国時代の女性。斎藤道三正室。
美濃明智城主 明智駿河守光継の娘で、光秀の伯母とも伝えられる。
信長の正室 濃姫と次男孫四郎の母として知られるが、若くして病没した。


血筋
新九郎義龍にとって、同じ土岐氏の血筋である明智一族は邪魔な存在でしかなかった。
東美濃の土岐一族を統治していたのが明智一族であり、しかも明智家は織田弾正忠家と親しい間柄でもあった。

敵対関係にある織田弾正忠家に明智家が付く様な事になれば、東美濃勢もそれに従うであろう事は予測ができたからだ。
それを恐れた義龍は、明智家に再三服従するよう要請するが、
その要請に従う気配のない明智家に業を煮やした義龍は、

弘治二年(1556年)九月二十五日
明智城に攻め掛かり、明智家を滅亡に追い込んだのである。







次回 第九十四話 明智城落城 ⇒



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